…あれが、妖しか。
見たところ、顔立ちの整った少女にしか見えない。
しかし、よく見れば見るほど、おおよその年齢さえはっきりとは分からない気がしてくる。
そして近寄ってくる内にもう一つ気付いた点がある。
地に足がついていない。
聖の者か魔の者かは分からないが、少なくとも人外の存在であることは確かだ。

荒事に慣れた二人が、直ちに応戦の構えを取ったかといえばそうではなかった。
精霊の類に金物を向ければ恐ろしい事態を引き起こす。
それに、終わりの見えない旅路に疲れ切っていた。

目配せを交わし、これが噂の妖しと共通の認識を持つ。
これであといくつの噂が残っているだろうか。
全ての噂を実証しても、誰かに伝えられる訳がないのに、無性に気になった。

やがて、仲間が口火を切った。
「教えてくれ、この森の出口を」

すると、少女は黙ったまま表情も一切変えることなく、ただある方向を指で指し示した。
ほんのすぐ先に、巨大な二本の木が互いに絡むように立っていた。
木の間には、家が数軒建つほどの空間が空いている。
その向こうには、草原が見える。
あれが、森の出口。

その時、それまで大人しかった荷獣が二頭とも突然走り出した。
鈍重ではあるものの、よく飼いならされた荷獣は手綱すら引く必要がなかった。
咄嗟に止めることも出来ないまま、大樹の間に駆け込む姿を見送った。
心なしか獣達の足取りは軽く、求めていた場所に行きあったとでもいうかのようだった。
唐突に蹴爪の立てる音が止んだ。
そして大樹の間にはさっきと全く変わらない草原が見える。
しかし、そこにあるはずの荷獣の姿はどこにもない。

明るい陽光が燦々と照らし出す草原。一見何の変哲も無い。
でもどこか違う。
空の色だろうか、それとも草の種類?
ここからでは分からない。
しかしそれを確かめに足を踏み出そうとは思わなかった。
が、ふと気付くと、唯一の仲間がよろめきながら歩き始めた。

「待て!危険だ、あそこは…」

呼びかけても聞こえている気配はない。
引きとめようと、勝手に体が動いた。肩を掴み、狙い済ました一撃を頬に見舞う。
痛さはそれほどではなくとも、我に返らせるだけの衝撃はあったようだ。

「ああ…、すまん。あの匂いに惹かれて…」

最初は心地良い花々の香りと思ったが、段々と感覚を麻痺させるかのような強烈な芳香に変わっていた。
それは意識しなければ、気付かないほどの変化で、巧妙だった。

仲間が正気づいた途端、自分達の状況まで認識させられた。
糧食や多くの荷物は獣達に乗せたまま失ったことになる。
赤くなった顔を今度は青くさせ、仲間が少女に詰め寄る。

「おい、出口はどこだ!どうやったらここから出られるんだ!!」

止めろ、と声を出しかけた時、同時に仲間が少女の体に触れた。
少女が叫んだ、かのように見えたが何も聞こえない。
しかし仲間は両手で耳を押さえ、壮絶な苦悶の表情を浮かべている。
それでも何も聞こえてこない。
もしかすると、自分の聴覚が無くなったのか、と疑念が生まれる。
仲間に近寄り介抱することも間に合わず、闇雲に走り出した姿があの草原に消えていくのを
見守ることしかできなかった。


以前違う旅人に聞いた話を思い出した。
『森に迷い込んだら、まず覚悟を決めろ。
運良く何かに出会ったら。
森での問いは一度だけ許される』


そうか…。
『彼女』達の声を聞いてはいけない。
聞いた者には狂気が訪れる。
だから、問いかけていいのは一度だけ。

『あなたは、何も訊かないの?』
不思議そうに、少女の顔をした妖しが眼差しを向けてくる。
さも意味が分からないというかのように、小首さえ傾げて。


一度、一度だけなら質問ができる。
だが、何と訊けば良いのか分からない。
分からないまま、清水を見つけては喉を潤し、まだ少ない木々の実りを胃に収める。

どれほど時間が経ったのだろう。
少女はまだついてくる。
今は恐ろしさも感じない。
不思議と、生まれた時から一緒であったかのような気さえしてくる。

それに…。

ごくまれに、僅かな空き地に出ることがある。
木々の切れ間から差し込む暖かな日差し。
この世界は森しかないのかと信じ始めた時に、外界があることを教えてくれる、唯一の存在。
その光に少しよろめき、初めて見るかのように見上げる少女は。

とても、美しかった。
これまで本当に美しいものなど、何一つ自分が知らなかったと気付かされた。

「…お前、名は?」

「……」

人でない者に名前を訊くとは、我ながら呆れ果てる。
名など持たぬかも知れぬというのに。

不意に笑いがこみあげた。
名を聞けば、自ずと声を聞くことにもなる。
その愚かしさを、自分らしさを笑った。
だが、笑いながらも。

「最期にお前の名を訊いて死ぬのも、悪くはない。そう思った」

相変わらず静かな視線を向けてくる少女に語った。
なぜか語らずにはいられなかった。

笑い声を初めて聞いたのだろうか。
驚いたような顔をしたのが意外だった。
知らず知らずの内に、自分の中にも狂気の種がまかれていたのだろうか。
どうにでもなるようになれ、と思わないでもなかった。
だから、思い切って少女の手を握った。
触ろうとしても触れず、空を掻くことになることも予想したが、それはしっかりとした感触が裏切った。

冷たい。
でもそれは、夏のさかりに清い流れに手を入れた時のような心地良さだった。

あまりのことに彫像のようにみじろぎもしない、少女の顔を持つ者を身近に感じた。
そう思った瞬間、自らの腕の中にその細い肩を見出した。

そういえば、最後に抱擁を交わしたのはいつだろう。
故郷を出てから随分遠くに、そして長く旅をしてきた。
久しぶりの触感に懐かしさすら覚えた。

何か、声が聞こえた気がした。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
とても長かったような、ほんの一呼吸の間だけだったような。

腕から少女を解放し、何か言ったのか?と問いかけようとした口からは声が出せなかった。
さっきまでの肌と肌が触れ合う距離がほんの少し広がっただけで、二度と埋められない何かがある。

少女とまともに見詰め合う。

美しいままの顔なのに、恐ろしい。
その小柄な体のどこにそんな力があるのかと疑いたくなるほど、凄絶な気が圧倒するように押し寄せてくる。
湧き上がる恐怖に、知らず知らずの内に後ずさりをする。

その一歩引いた足を、ほんの束の間少女が見つめた。
その眼が悲しそうに見えたのは、気のせいだったろうか。

「待ってくれ!」

思わず伸ばした手を、横殴りの風の塊が拒絶する。
風圧に押され、じりじりと後退する。
四方から吹き付けて翻弄してくる風に息も出来ず、転倒しないようにするのがやっとのありさまだ。
やっと風が止み、再び顔を上げることができた。

少女が微かに顔を綻ばせると、風がまた吹いた。
今度は、とん、と軽く手で押すように、優しく。

「え……」

眩しさに眼がくらむ。
急に力が抜けて後ろにへたり込んだ。

外だ。
目の前には、見た目だけ平和そうな森。
どこにでもある、何の変哲も無い森と、少女にしか見えない何かがいる。
もう一度だけ視線を合わせた後、少女は森の中に溶け込むように消えていった。

それから街に戻り、全ての出来事を忘れようとしたが無駄だった。
脳裏に浮ぶのはいつもあの時の少女の顔。

この先の自分の残り時間がどれほどあるか知らないが、どんなに満ち足りた人生よりも
あの少女の名を知りたい。声が聞きたい。

森の奥へ奥へと踏み入り、あの少女の姿を、梢の間に見つけはしないかと探す日々。
少女に出会えなければ、大樹を目指そう。
きっと『こちら』ではない世界が待っているはずだ。



___あの森に入ろうなんざ、物好き通り越してるぜ、あんた。
もっとも、最近はちっとばかし雰囲気が違うようだがな。
入ったまま戻ってこねえ人間も相変わらずいるが…。
近頃、あの森は『木霊の笑う森』って呼ばれててな___






いつも色々なネタを提供して下さっている柴田様が、
なんとイラストを元にした小説を書いて下さいました。
作品として完成されていたため、ぜひ公開したく、
ちょっと無理言った気もしますが;お願いしてOKを頂きました。
ありがとうございました!

なお、作中で明確に書かれていませんが、主人公は女性です。
(ちなみに、イラストで髪が短い方の少女は別の妖しです。



2009年4月